Mikatahara Smile ~聖隷三方原病院 看護部ブログ~

総看護部長 吉村浩美の日記

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◆創立80周年記念原稿

記念原稿リレーを始めるにあたって

 聖隷福祉事業団は今年創立80周年を迎えます。 

 この記念すべき年に“聖隷”発祥の地である聖隷三方原病院でも関係者の方々から聖隷の歴史に学び、未来へ向かって聖隷を支えていく職員にその精神をつなげていきたいと考えています。そのため、関係者の方々に執筆をお願いし、ホームページ上で掲載していきます。 多くの方に読んでいただきこれからの聖隷三方原病院の未来像を語り合いたいと思います。

いろいろな語り口があるかと思います。  「黎明期のころのお話」 「病院とのつながり」 「在籍したことのお話」 「聖隷三方原病院への期待」 などなど

職員からは、「これからの聖隷三方原病院」  「聖隷の未来」など 自由に執筆を依頼してあります。

また、お写真などありましたら、掲載させていただきたいと思います。 吉村までご連絡ください。

皆様のご期待くださいませ。

 明日 5月1日が創立記念日です。 ここから「聖隷三方原病院を語る」 原稿によるリレーを始めたいと思います。

 

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日時: 2010年04月30日 18:27
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花と緑にあふれる病院 大手歌子氏

「花と緑にあふれる病院」    前総看護部長 大手歌子

 今から60年ほど前

 私が子供のころ、聖隷三方原病院には花が一杯に咲き乱れ、患者さんたちは厳しい療養生活の中で大変喜んでいた姿が思い出されます。

 当時の病棟は現在のホスピスのように、すべて平屋で前にはテラスが付いていました。その前庭には一年中四季折々の花が咲き乱れ、雑木林のうぐいすの初音や小鳥のさえずる声のなかで、不治の病であった結核と闘っていました。

 早春の森の小道にはかわいらしいすみれや春蘭そして金色のアカシヤ、4月にはチューリップ、ポピーなど色とりどりの花、5月にはさつきや山つつじ、6月には笹ゆり、あじさい、矢車草、夏には草むらの愛らしいりんどう、ききょう、くちなしの花、さるすべり、秋には道沿いいっぱいに咲き乱れるコスモス、金木犀、冬は水仙、山茶花、椿などでした。

  ぼろの天使によって園内は花いっぱいになった

 『神よ私の杯は溢れます』長谷川保著36ページに聖隷保養農園(現 聖隷三方原病院)が花いっぱいの園になったことを記述しています。一部要約し記しますと

「終戦の年の秋の半ばのある日、70歳ぐらいの老人が長谷川保園長の所に来た。この老人は身寄りも帰るところもなく、ご飯だけくれれば何でも働く、どこでもいいからおいてくれと保に懇願した。園には戦災者や引揚者、患者たちで一杯であったが、正直そうな人であったので、幸い畑の小屋の3畳が一つ空いていたのでそこに住まわせてあげた。

このぼろのおじいさんは、次の日になると畑小屋の苗木の箱を持ち出し近くの川に行って川砂を取って来て、庭のつつじや日おおぎ、銀葉アカシヤの種や小枝を切ってさし木をしたり種をまいたり、苗木を育てる仕事を一生懸命精を出している。銀杏を埋めたり、さるすべりの種をまいたり、山藤を掘って来て植えたり、桜の苗、いろいろな苗木、めずらしい深山つつじや白藤まで庭に植え込む。数年後には5万坪の庭は花いっぱいになってしまった。

園内を花いっぱいにしようとの保の願いは、たまたま拾ったぼろのじいさんによって、今日は病人や障害者や老人を慰めている。まるでアンデルセンの童話にでてきそうな、乞食に親切にしてやったら天使だったと言う話のように今も僕には思える」

 私の願い

現在の聖隷三方原病院にはその面影がほとんど失われてしまった。私は退職後いつかまた多くの花に囲まれた病院を取り戻したいとおぼろげに心に抱いていたところ、2年前から友人とともにボランティアでホスピスの草取りを始める機会に恵まれた。今は草取り程度だが、夢は子供の時に見た花いっぱいの庭とし、患者さんの慰めになってほしいと願うのである。

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日時: 2010年05月01日 05:49
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はじめに愛があった その原点を見つめる

聖隷機関 これからの未来 に寄稿した原稿です。  2009.2

「はじめに愛があった その原点をみつめる」            聖隷三方原病院  看護部長 吉村浩美   

 

 もうすぐ80周年

聖隷事業団は創立79年、人間でいえばもうすぐ80歳の傘寿となります。長い歴史の中事業団は発展を遂げてきました。リチャード・L・ダフトによると組織のライフ・サイクルは、「いくつかの危機があり対応しきれず停滞や衰退を経験しながら成長をめざす組織がほとんどである」と述べています。組織の中には巨大化しすぎて整理統合されたり、衰退し存続を危ぶまれることがあります。しかし、事業団は日本有数の医療・福祉・保健の事業体として成長を続けています。それは、成長を支えてきた職員の努力と危機をチャンスに変えて先駆的なことにチャレンジしこの分野の路を創りあげてきたからでしょう。

この時期に長谷川保氏がこの“仕事”を始めた当初をふりかえり、聖隷としての“仕事”を考えてみたいと思います。

 はじめに愛があった

私が聖隷の由来を本気で考えたのは次長になった時だと思います。その仕事の跡は、三方原の地でホスピスや記念碑に、資料館に、理念に見出すことができました。彼たちの仕事に携わった方も多く、中でも大手歌子前看護部長からは「聖隷の名に込められている使命を忘れずにおこないなさい。」と『隣人愛』を教えら、創始者たちの本を渡されました。これから知り得たことは仕事の意味と科学的看護が80年近く前に行われていたことでした。不治の病と恐れられた結核により自暴自棄となっていた方が、彼たちの丁寧な看護によって生きる意味を見出し短くとも輝いた人生を送ったことに感動を覚えます。

さて、理念の継承者として部長を託された私は何度か信念を試されました。1つは2003年のキシロカイン過量投与事故でした。聖隷始まって以来の出来事であり、事実を隠さずご遺族とは真摯に向かい合い、今後大切な命を失うことのないよう再発防止に職員が一丸となった実感を持ちました。もう1つは2003年の重症急性呼吸器症候群SARSウイルス)患者対応を病院管理者たちと検討し受け入れを決定したことです。聖隷の使命に対して管理者たちがぶれなく判断したことに安心し、この病院に誇りを感じたものです。そうはいっても受け入れた場合、職員の安全も守らなければなりません。机上の検討から隔離領域を定めてシュミレーションを行ったことは今も鮮明に覚えています。

 非営利組織としての聖隷

私たちの組織は社会福祉事業を目的とした非営利組織であり、事業で剰余金を生じたときは当該法人が行う社会福祉事業または公益事業に当てるとされています。これが営利目的の企業との違いであり、余剰金に対して税金の免除があります。F・ドラッカーは「非営利組織の経営」で、使命を達成するために「機会と能力と信念」が必要であり、よき意図を成果に結びつけるために「計画とマーケティングと人と金が必要である」と述べています。

非営利組織といっても100以上の施設と10000人近くの職員がいるのですから、経営が安定していることは必須条件です。聖隷三方原病院の20年前は23億円/年の赤字でした。累計も多くこの危機に対して、急性期病院へと経営方針を転換し職員の努力で78年前から成果がでました。営利企業では利益がでなければ地域に必要な事業であっても切り捨てることとなります。そうなった場合職員も路頭に迷いますが、病気を持った方々が大変にお困りになったことでしょう。非営利組織であり聖隷だからこそ必要な事業を事業団全体の支援によって存続することができるわけです。

ただ、新規事業は人材の確保にご苦労されている話をよく聞きます。私たちの仕事は医療福祉サービスで多くのマンパワーによって支えられます。人材が確保できるかは経営シミュレーション同様に充分に考慮する必要があるといえます。

  “仕事”の楽しさと聖隷三方原病院

“仕事”と就職先は個々がもつ選択の自由です。私は、中学時代のボランティアで子羊学園に訪問したこと、母の病気体験などで看護の仕事を選びました。そして、再就職先に聖隷三方原病院を選んでよかったと思っています。それは組織風土が開放的であり、チャレンジ精神が旺盛、尚且つ階層構造のない組織だったからです。患者さん、地域住民のためにと職種を越えてチーム医療ができること、これも当院の魅力です。

さて、新たな事業にドクターヘリ促進事業があります。救急領域に長くいた私は、病院で患者さんを待つ医療から現地に行って治療を開始する、言ってみれば打ってでる医療への転換は画期的でした。これによって救命率も社会復帰率も向上しました。また、東海沖地震が叫ばれますが、その際、病院が倒壊しては最善の医療を行うすべもありません。2008年開設したF号館は免震構造です。その整備に88億円の投資が必要でしたが、これによって災害時には大きな働きが期待できます。また地域から安心なお産も期待され、今春には院内助産所たんぽぽを開設しフリースタイルのお産が提供できます。とてもやりがいのあることです。

地域住民の期待は24時間の救急体制、小児・周産期医療、最先端のがん治療などがあり、行政は新型感染症、急性期精神医療、重度心身障害児施設の維持などを切望します。私たちはこれらの期待に応えられる病院としてさらに発展することでしょう。

長谷川保氏も八重子夫人も「人の生命程尊いものはない。キリストの名において行うことは最善でなければならない」と信念をもち、無一文でありながら日本随一と謳われた都築教授を招聘しての胸部外科手術や日本初のホスピス開設など成しえました。ドラッカーのいう「機会と能力と信念」この重要性がわかります。

人生において仕事に費やす時間は1/3ほどですが、これほど他者の人生や生活に真剣に向かい合う仕事はありません。これからも、この“仕事(看護)”に出会えた幸せを思いながら、発展的に聖隷の事業を次の代にも引き継ぎたいと思います。

「未来とは、既存の選択肢を進んでいくものではなく、新しく創っていくものである。それはまず頭脳と意思、そして行動によって創られる。未来とは、自然に辿りつくものではなく、自分たちで創りあげていくものである。路は探すものではなく、創るものである。創るという行動が、その人間と目標を向上させていくのである。」ジョン・スカール

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日時: 2010年05月10日 10:16
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「平成初期の聖隷三方原病院の思い出から」 鈴木勝雄氏

   「平成初期の聖隷三方原病院の思い出から」

              鈴木 勝雄(現在:法人監事)

 

 今年、隷福祉事業団は創立80年目を迎えるが、聖隷三方原病院のスタートがその歴史の始まりであり、今でこそ多くの施設を抱える法人となったが、諸先輩の皆様に喜びも苦悩も最も多く提供してきたのが聖隷三方原病院であるとわたしは考えている。

 私が聖隷三方原病院に在籍(事務長として)したのは平成元年から平成5年まで、80年の歴史からいえばほんの一時期に過ぎないが、その時その時に事の大小に関係なく忘れられない出来事があり、これが歴史となっていくのだろうと考えている。

ここでは、私が在籍したころの出来事その他を思い出すままに綴ってみたいと思う。

平成になる直前、昭和62年に聖隷三方原病院では大きな工事が竣工していた。そしてさらに建替えを検討しなくてはならないのが(平成22年現在は残っていないが)、1号館、母子棟、結核棟、ホスピス棟、精神科病棟であり、私が赴任した当時から、何となくこれらの建替えを早期に行いたいという期待が感じられた。しかし、昭和55年及び昭和62年と大きな建築を行ったことで、聖隷三方原病院は疲弊していたことも事実であった。バブル経済が破綻し経済環境も右肩下がりになりつつあり、診療報酬アップも期待できなくなる中、大きな借金にずしりと寄りかかられ(当時の金利は今と異なり6~8%ほどであり、利息負荷も年間4~5億円であったと思う)、どうすればいいんですか? という状況であった。でも聖隷三方原病院には名物(表現に失礼があった場合はご容赦を!)となるような人たちが数多くおり、従って社会環境や病院を取り巻く厳しい環境をものともせず、積極的・建設的意見が次々と出されていたことも事実であった。事務部門ではこれらの意見の整理(経済的裏づけの確認など)に奔走するような毎日であったが、この精神が聖隷精神なのかと当時感心したものであった。

 私が赴任する前から実行に移されていた事業は、ホスピス、救急ヘリコプター、救急部・総診を中心とした24時間365日患者さん受け入れシステムの確立、などなど・・・

 このような日本の先駆的事業を推進していくために、聖隷三方原病院の医療レベルは当時も、またそれ以前からも相当高いものであり、これを支えていく看護・医療技術のレベルも相当なものであったと思う。当然ながら地域の方々からの信頼も高かった。

 

具体的例を一つ、

 近隣の消防署救急隊の方々とは話す機会が結構あったが、救急隊の人たちは、地域による制約があることは承知しているが、出来るだけ患者さんを聖隷三方原病院に運びたがっていることを数回聞かされた。受け容れ体制と受け容れ後の安心感からと思われた。社交辞令(お世辞)かもしれないが、99%以上?は本心であったと確信している。だから経済的環境は非常に厳しいものであったが、病院に勤務している皆は将来(未来)の、もっともっと安心を届けることの出来る高いレベルの医療実現に向かって仕事をしているんだという実感に満ち満ちていた。

 平成元年はコンピューターも導入前夜であった。それまでは浜松病院に本体を置いての共同利用であったが、当時の回線スピードの制約もあり、どうしてもレスポンスが悪い、このため独自導入が悲願であったが、資金確保は難しい。この為IBMの中古機を使用してのスタートであった。でもこのコンピューターを利用し、外来の当日受診予約システムを独自に開発し、全国に先駆けて稼動させたことは快挙であった。このことによって患者さんの待ち時間が短縮され、結果として駐車場の利用効率もアップし、駐車の待ち時間も短縮されることになり、患者さんに大変喜ばれた。

 

前述の救急関連のエピソードから一つ、

 平成4年であったと思うが、浜松のある会社の方々が団体で中国を訪れ、万里の長城をヘリにて観光中に事故に会い(亡くなられた方も多く、重症を負った方々は中国の病院にて救急処置)、この方々が中国の病院にて手当を受けたのち、本格的処置は日本で行うこととなり、浜松に近い所へということから小牧空港経由・小牧市民病院に搬送されることになった。小牧への搬送が決まった日の夜、私のところへ副院長から、小牧市民病院へ患者さんが転送されるようであるが、小牧市民病院に連絡して、当院が受け容れの用意があることを伝えて欲しいと電話があった。夜9時過ぎであったと記憶しているが、小牧市民病院へ早速連絡、小牧市民病院救急部長との話し合いの結果、浜松への転送を了解していただいた。翌日当院の救急車と民間の救急車、合計10台ほどを連ねて浜松へ転送、なにしろ14~15名の重傷者であり、三方原病院単独での受け容れは難しく、浜松病院にもお願いし、両病院で受け容れることとなった。マスコミも万里の長城の大事故を大きく取り上げている最中の患者さんの搬送で、TVを含め取材も賑々しいかぎりであった。ただし、夕方の受け容れ後の取材の殆どは浜松病院であったのは、やや心残りではあった。でもその後、全患者さんが無事退院されたことは本当に幸いであった。この件の感想の一つとして、やや不謹慎かもしれないが、マスコミ対応について浜松病院を見習う必要があることを感じた一幕であった。

 私が三方原病院にいる間の大きな変化として院長交代も忘れることが出来ない。10年間頑張って三方原病院を支えてこられた鹿内院長から新居院長へとバトンが渡された。新体制となって患者さんを中心にした病院であることを更に充実させようと「患者の権利宣言」について議論がされ、新体制になって半年後にこれを玄関に掲示することとなった。新居院長の方針であったが、このことも全国の病院に先駆けてのことであった。そして、この翌年に病院の機能評価も受けることになる。

 ここに記した事柄は、平成22年の現在から考えれば、何もかもが当然のことで、遣り残したことが多いのではないかと叱責されるような内容かもしれないが、当時は聖隷三方原病院の皆が精一杯考え、出来うる最高の仕事をしていたと、私は勝手に考えている。

 聖隷三方原病院の、ほんの歴史の一コマに過ぎないが、職員の人たち全員が、この時代にも生き生きと輝いて仕事に励んでいたことを記憶しておいていただきたい。

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日時: 2010年05月13日 10:32
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「聖隷福祉事業団と私」 事務次長 石野 実俊氏

「聖隷福祉事業団と私」 総務課 石野実俊

 

創立80周年という節目に聖隷福祉事業団の職員として在籍していることを大変うれしく思います。また、ここまで地域に信頼される事業集団となりえたのは、先輩方の努力の賜物だと思い、感謝申し上げます。

私が聖隷に就職したのは、19874月のことです。最初の赴任施設が当院で、その後法人本部を経て20094月より再び当院での勤務となりました。早いものであっという間の23年間でした。何となく就職したわけでなく、聖隷には昔から愛着というか縁というか、つながりみたいなものを感じていました。生まれつき心臓が悪く、3歳時に先天性心房中核欠損症の手術を聖隷浜松病院で行いました。幼少時代で詳細は忘れてしまいましたが、確か「ウシダ」医師に執刀いただいたと記憶しています。その後、小学生時代に中耳炎で入院し、物心ついたときには聖隷に就職して間接的でも構わないから患者さんの役に立ちたいという思いを持ちました。就職してからもウイルス性脳炎や虫垂炎で当院に入院したこともあります。40歳を過ぎた現在、顔色が優れないとか言われますが(顔は良いのですが・・・笑)、満足に生活できています。

就職当時を振り返ると、今ではどの医療機関でも設置されている再来受付機や自動精算支払機などがなく、人的対応がほとんどでしたがそれなりに充実していました。手作業で全員が一つずつ行うことにより一体感や団結力があったような気がします。現在は、IT技術の進歩により、コンピュータにて効率化がすすんでいます。時代の流れで作業が集団から個人へと変化し、帰属意識が薄れかけているのかなと感じることもあります。今、求められていることは職員が聖隷で働いていることに誇りを持ち、充実感を感じながら仕事をすることだと思っています。

将来の聖隷三方原病院は、当然のことですが地域に密着した病院であり続けなければなりません。患者さまが求める医療サービスを提供し、地域住民に働く場の提供、すなわち雇用を創出する必要があります。数十年後、ハード面は更に充実していることと思いますし、A・B号館等の老朽化改修建築工事が完成しているかもしれません。ただ、ハード以上にソフト面を充実させ、人と人とのつながりと基本理念の「隣人愛」を意識し続けなければなりません。個の力を集結し、新しい企画提案、発想力豊かな職員とならなければなりません。いつまでも元気な聖隷三方原病院であり続けたいです。

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日時: 2010年05月18日 08:05
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「聖隷三方原病院と私」資材課長 大橋 将宏氏

「聖隷三方原病院と私」 資材課 大橋 将宏 

 私は平成2年、聖隷三方原病院 薬剤部に就職しました。 13年間、内服、注射のオーダリング、院外処方時代への対応等を経験した後、聖隷沼津病院 薬剤課に4年半お世話になりました。 現在は聖隷三方原病院の資材課に配属され聖隷歴は20年となります。

 資材課での2年半は丁度病院建築5ヵ年計画の残り半分と重なることとなり、新棟F号館建築、既存病棟AB号館改修、手術室4床の増床、放射線治療棟新築にかかわり、各々の備品整備を行なうことにより、得がたい経験をさせて頂いています。又、感染・医療安全に基づく診療材料変更の検討をし、病院各部書からのヒアリングに基づいて購入した備品が有効に活用されている現場を見させて頂いています。 それにより、資材課の仕事は「より良い物を、より安く、タイミングよく購入する」ことで「病院のレベル(質)を維持・向上させる」ためのお手伝いをさせて頂いていることを実感しています。

 当然、私だけではなく当院資材課で働いている全スタッフがそのような経験をしています。 日頃、職場でスタッフに行なって欲しいことは、「あたま」を使って仕事をすることです。 「あたま」を使うとは「よく考えて段取りよく」というより、 「あ:明るく、た:たのしく、ま:真面目に」仕事をしようということです。 ですが、私がこんなことをいうまでもなく 現スタッフは自然に実行しています。そんなスタッフ達に職場長が「聖隷の未来」というお題を頂いて苦心しているので「隣人愛」をもってなにか考えを下さいと依頼したところ、以下のような意見が出てきました。

     隣の聖隷学園は中学、高校、大学まであるので、いっそ、幼稚園、小学校もつくって職員の子供が聖隷病院で生まれてから社会人になるまでずっと通えるようにしたらどうか

・ もっと全国区になるように名前を売る。

    地域の人々の声をもっと拾えるように

    ニーズ満足度一番を目指す。

    ショッピングモールを作って郊外型医療都市を形成する。

  ごもっともという意見からユニークなものまで様々出して頂きました。  私が就職した20年前に比べても聖隷は本当に大きくなりました。その変化に戸惑うこともあります。しかし、今の病院形態が地域からの期待の結果と考えると妥当な大きさなのかもしれません。 今後も、より地域、時代のニーズに合せた病院をつくるために、スタッフや取引業者の方々と共に「あたま」を使って仕事をしていきたいと考えています。

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日時: 2010年05月22日 07:38
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「進化を続ける建物」施設課長 石津谷好康氏

 「進化を続ける建物」 施設課長 石津谷好康  

 今年は創立80周年であるとともに、放射線治療棟を含めたおよそ5年に渡るF号館建設計画の完成の年となります。既にF号館本体は2008年に完成しましたが、その陰で老朽化した建物は取り壊しされました。主な解体建物は、本館、検査棟、母子棟です。いずれも1960年代~1970年代に建設された建物です。施設課で保管していた建設当時の図面を開いたところ、本館1階にはレントゲン室、検査棟3階には手術・中材が配置されていました。手術室の一段高いところには見学室が配置され、手術中の見学が出来る構造となっていました。いずれも、B号館完成までその機能を果たしていたと思われます。  

 さて、本題ですが「進化を続ける建物」とは、現在の基幹建物であるA、B、C、F号館の建設年を振り返ればすぐに連想できます。A号館(1980年竣工)B号館(1987年竣工)C号館(1996年竣工)F号館(2008年竣工)とおよそ10年前後の間隔で増改築が繰り返されました。建設工事が終わったと思ったら、一息ついてまた工事が始まっているという感じですね。その時々のニーズを踏まえ病院は高機能化され患者様の療養環境も良くなってきたものと思います。 そこで、建築年代による建物・設備の違いを比較してみましょう。ここでは、A号館(1980年竣工当時)とF号館(2008年竣工)の主に大部屋を中心に比較してみます。 

項目 A号館(1980年竣工当時) F号館(2008年竣工)
建築構造 耐震構造 免震構造
個室率 10パーセント 40パーセント
共用廊下床仕上げ Pタイル カーペット
大部屋ベット数/ 6 4人 個室的多床室
大部屋1床占有面積 5.7 11.0
電気コンセント ベットあたり一般電源2非常電源なし ベットあたり一般電源6口 非常電源2
大部屋医療ガス 室で2箇所設置(3ベットで1箇所) 1ベットごとに設置
ナースコール ナース室に卓上親機室単位でのスピーカマイク方式握りボタン 電子カルテ連動パソコン親機ベット単位でのスピーカマイク方式ハンド子機 ハンディーナース装備
洗面蛇口 手動水洗 自動水洗
大部屋トイレ 病棟単位での中央配置和式洋式 半々 大部屋単位での配置洋式ウォシュレット付
大部屋冷暖房 床置型 熱帯夜でも夜間冷房停止 天井型 真夏24時間冷房
窓ガラス 1枚ガラス 2重(ペア)ガラス
脱臭装置 なし オゾン脱臭装置
  一見してお分かりいただけたかと思います。建物構造は災害により強く、また、充実した医療ケアを可能とする電気コンセント、医療ガス、高機能化したナースコールが装備され、室空間を含めた療養環境は大幅に向上してきました。  次の大きな節目である創立100周年の時代は、どのように進化しているのでしょうか?20年後ですから、更なる安全安心高機能な医療を提供するための建物造りがされ、もっともっと個室化(制度上も)が進み、快適便利な療養環境が求められていることでしょう。その時も、是非、建設計画の一員として、その時代のニーズに合った「進化を続ける建物」造りに参加させていただければと思います。

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日時: 2010年05月27日 17:16
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「これからの聖隷三方原病院」 栄養課 清本貴子氏

 「これからの聖隷三方原病院」 栄養課 清本貴子

 

 聖隷三方原病院に就職して14年。そのうちの3年半は、東京都八王子市にある「明日見らいふ南大沢(有料老人ホーム)」で働いていました。異動した当初の2001年には、東京近郊で生活をしてこられた入居者の皆さんにとって、お住まいになる前に「聖隷」という名前を知っていたという人はほとんどいませんでした。 もちろん、聖隷の施設が今ほど関東になかったというのもありますが。ところが、2003年に病院ランキングが発表されると記事を誇らしげに職員へ見せてくださる入居者の方が何名かいらっしゃいました。きっと、ご入居者の方も自分に関係しているようで嬉しかったのでしょう。その後もTVや本、雑誌などで取り上げられることも多くなり、全国的に「聖隷三方原病院」という名前が知られるようになりました。また、同じ職種の方からは学会や講習会などどこに行っても、注目されるようにもなりました。

 

 栄養課の理念は「最後のワンスプーンまで」であり、この思いは長年変わることなく、また受け継いでいかなければいけないと思っています。就職してから5年程は、ホスピスを担当していました。患者様にとって常に食事が苦痛になるのではなく、少しでも楽しみになってもらえないかという思いで、患者様の相談にのったり、季節に合わせたおやつを作ったりしていました。心に残っていることの中のひとつに、「息子と外にチョコレートパフェを食べに行きたいんだけど、行けそうにないから作ってもらえないか」と相談され、まだ小学生だった息子さんと一緒に食べられるよう、チョコレートパフェらしき?ものを作ったことがあります。

今は設備が変わり、当時とまったく同じ対応は出来ないかもしれませんが、このような希望には「最後のワンスプーンまで」精神でこたえていきたいと思っています。

 医療は常に前進し、我々もそれについていくことに必死ですが、「最後のワンスプーンまで」精神は変わることなく、患者様に時代にあった良い食事サービスを提供していこうと思います。

 

 これから、聖隷三方原病院はもっともっとメディアに取り上げられることが増えるのではないかと思います。私たち栄養士も活動を多くの人たちに知ってもらえるよう努力をしていこうと思っています。

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日時: 2010年05月27日 17:36
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「結核を中心としてきた病院から近代的総合病院へ」 聖隷福祉事業団 監事 渡邊正幸 氏

 結核を中心としてきた病院から近代的総合病院へ                   

            聖隷福祉事業団  監事  渡邊正幸 氏

  当時の長谷川保理事長から「中途半端なことはしないように、最高を目指しなさい。」と言われて、聖隷三方原病院へ着任したのは昭和55年6月でした。それから平成元年9月まで鹿内健吉病院長、長屋好美総婦長と供に仕事をさせていただきました。

  当時の病院は結核病院から総合病院へ転換しようとして、「55計画」(脳卒中センター)の建物が竣工し4月にオープンしたばかりでした。診療科16科、許可病床数534床、一日当り外来患者数約520人、入院患者数約370人、職員数約470名でした。新しい病院への転換をスタートした時でしたので、組織的にも不安定な状況下にありましたが、情報の伝達をできる限りオープンにして正しいものを早く伝えることで、落ち着きを取り戻してきました。

  病院の環境は敷地内クリストファー側には木造平屋の結核病棟が残っていて、それを有限会社聖隷サービスが利用して印刷の仕事をしていました。予防検診センターの敷地には職員用の小さな一戸建て住宅が数件あり、客間と呼んでいた来客が宿泊したであろう建物もありました。看護宿舎の辺には職員用住宅通称ハーモニカ長屋、北側駐車場道路沿いにはやはり、職員用住宅がありました。近隣は農地が広がり緑豊かな田園風景でした。そのため、患者さんやその関係者などの交通アクセスを考えて、駐車場の拡大整備と同時に、遠州鉄道株式会社のご協力を得てバス路線を病院前まで迂回して頂いたり、新たに路線を浜北から聖隷三方原まで設けて頂いたりしました。

  最初に始めたのは管理者研修でした。大変厳しい経営状況の中とても予算を計上することは困難と思いましたが、何とか役員会に於いてご理解を得て進めることができました。外部講師を招聘し毎月係長以上の集合研修をしました。教育の即効性は期待できませんが、長期的にみれば大変大きな力になること身をもって体験しました。数年後各職場の役職者は日常業務の中、常に問題意識やコスト意識を持って様々な改善を実行し、成果をあげてくれました。

  昭和56年4月当時の長谷川保最高顧問発案の、日本で初めてのホスピス事業が病棟内分散型で始まりました。当時は院内医師の認識が必ずしも一致していることではありませんでしたが、数ヶ月すると徐々に協力関係ができ上がってきました。そしてその年11月、30床の集中型へ移行して本格的に事業推進がされました。この頃から、当時の厚生省の大臣初め多くの方々が視察調査に来院されるようになりました。またマスコミ特にテレビはNHKはじめ民放各社の取材攻勢があり、原義雄所長は対応に大変でした。1時間番組など放映されて、聖隷三方原病院が全国に知られる大きな出来事でした。

  昭和58年8月予防検診活動の質とサービスの向上を目指し、病院の一部門から独立して、宿泊ドック32床を持った予防検診センターが開設しました。

  昭和60年5月、日本で5番目の腎結石破砕装置(ドイツドルニエ社製)を導入し治療を開始しました。当時外科手術では長期入院が必要でしたが、この装置による治療は1週間程度で退院することができ、企業や団体の要職に居られる方はじめ多くの患者さんにご利用いただき、県外からもしばしばお見えになりました。

  昭和62年4月2号館を開設し、診療科21科、許可病床数は790床になりました。この建築は手術室、放射線部門、内視鏡部門など汽車に譬えるならば、病院の機関車部分を整備しました。経営的には厳しい事業でありましたが、医療の質の向上と、将来構想の一環として実施しました。

 この計画により、診療体制として救急医療や総合診療内科などの充実が推進されました。

 平成元年10月、9年4ヶ月の勤務をして異動しましたが、聖隷三方原病院の印象は医師をはじめ各部門が真剣によく議論する集団であったと思います。このような聖隷三方原病院の風土の中から、上記のように様々な事業が推進されたことにより、一日当り外来患者数約1330人、入院患者数約740人、職員数約840人と拡大発展することができました。

  聖隷福祉事業団60周年記念式典に於いて、長谷川保最高顧問(聖隷の創設者)が挨拶の中で述べられた大切な言葉を紹介して結びにします。「聖隷が創立の精神を持って尚、更に進んでいただきたい。世界がある限り、人間がある限り、そこには必ず助けを要する人がいる。それに対して、第二代、第三代の皆さんが尚続けて、聖隷の事業を発展させていっていただけますよう念願する次第です。」

                                                                                  平成22年5月10日

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日時: 2010年06月04日 18:43
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「聖隷」80年への思い  小羊学園 稲松義人 氏

「聖隷」80年への思い

                 小羊学園 稲松義人

 

外部の方たちと話しをしていると、小羊学園のことを話しているのに、今でもよく先方から「聖隷さんは・・」と言われます。「小羊学園は聖隷(福祉事業団)の施設ではありません」と説明してもうまく理解してもらえないこともあります。最近では、以前の「聖隷福祉事業集団」という表現は、「聖隷福祉事業団」との違いが紛らわしいこともあり、「聖隷集団」とか「聖隷グループ」ということが多いようですが、グループといっても、企業グループのような経営上の特別な関係があるわけではありませんし、加盟するとか調印するとか、お互いの関係を確認するような手続きをしたわけでもありません。実際、グループに属しているからといって何らかの義務を負っているわけでもありません。ですから、どこまでを「聖隷グループ」と見るかということについても、それぞれの法人施設で見解の相違があるのではないかと思います。

それでも、小羊学園も歴史的な側面からみて「聖隷」との浅からぬ関係があって今があるということは間違いありません。ですから、小羊学園もそのルーツをたどると80年前の聖隷の創業につながっていると思っています。さらに、私自身は外部の方たちから「聖隷」だといわれて、社会的な責任主体(法人組織)として違いを説明することはあっても、自分たちが「聖隷」とは無関係であるとはっきりと否定してこなかったのも事実です。それは、私自身がキリスト者であることがあるのかも知れませんが。

「聖隷」という名称は「聖なる神さまの奴隷」という意味だと聞きます。しかし「神さまに仕える仕事」「キリスト教社会事業」といっても、今は日本のキリスト教施設、学校などのほとんどは、実際に働く職員の多くがキリスト者ではありません。聖隷福祉事業団においてもそうでしょうかが、小羊学園においても全く同じです。にもかかわらず、「聖隷」の名称に何らかの思いをもちつつ歩んできたのは、明確な位置づけはしてこなかったけれども特別な意味を感じてきたからだと思います。

医療にしても福祉にしてもあるいは教育にしても、実際の営みにおいては、科学的に最先端のもの、つまり人の知恵の最高のものを取り入れようとする努力が必要です。しかし、何のためにそれをなすのかということになると、科学だけでは十分に説明できないところに行きつくように思います。自分の生活のために働く、あるいは自己実現のために働くというのももちろんあるのでしょうが、私たちはそれ以上の意味を自分たちの仕事にもちたいと願っているような気がします。ひょっとすると毎日の生活の中では忘れてしまっていてあまり意識に上ることはあまりないかも知れません。それでも、私たちは人間の知恵を超えた、いつの時代にも揺らぐことのない深い意味を求めているのではないかと思うのですがいかがでしょうか。

「聖隷」という名称は、組織的に見て一つではないからこそ、捉えかたに曖昧さがあるからこそ、そんな魅力のある「意味」を感じさせる響きがあるような気がします。「聖隷人」という表現があります。さすがに小羊学園の職員一人ひとりは「聖隷人」という自覚には欠けるかも知れませんが、仕事をしながら「聖隷」とのつながりを知るようになるときに、自分たちの仕事は、大きな志と使命につながれていることを自覚するようになることはできるような気がします。

一つの組織として大きくなっていく「聖隷」にはおのずと限界はあるでしょう。しかし今や、広い視野で私たちが生かされている世界を見るときに、政治と経済、環境問題、人口問題等々、地球的なスケールで混迷を極めているように思われます。全人類の知恵を駆使して新しい時代へ向けて、問題解決への道を求めなければなりません。しかし、私たちがこれまでそうしてきたように、自分の目の前にある小さな一つの命に向き合って生きようとすることからはじまる実践から、私たちの思惑を超えて次の時代に一筋の光を示すことができるのではないだろうかと思っています。小羊学園でも今後自分たちが大きく展開していく仕事に連なっていることを誇ることのないように注意したいと思います。しかし、大いなる永遠の世界につながる使命に連なっているという喜びと誇りは忘れたくないと思っています。80年は一人の人間のスケールからすると長い歴史ですが、私たちの生きる社会の歴史からすると一通過点に過ぎません。

聖隷の歴史が、90年、100年、200年と刻まれていくことを祈念しつつ、ともに喜びの輪に入れていただきたいと願っています。

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日時: 2010年06月11日 17:48
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結核を中心としてきた病院から近代的総合病院へ 聖隷福祉事業団 監事 渡邊正幸氏

結核を中心としてきた病院から近代的総合病院へ 


  当時の長谷川保理事長から「中途半端なことはしないように、最高を目指しなさい。」と言われて、聖隷三方原病院へ着任したのは昭和55年6月でした。それから平成元年9月まで鹿内健吉病院長、長屋好美総婦長と供に仕事をさせていただきました。



  当時の病院は結核病院から総合病院へ転換しようとして、「55計画」(脳卒中センター)の建物が竣工し4月にオープンしたばかりでした。診療科16科、許可病床数534床、一日当り外来患者数約520人、入院患者数約370人、職員数約470名でした。新しい病院への転換をスタートした時でしたので、組織的にも不安定な状況下にありましたが、情報の伝達をできる限りオープンにして正しいものを早く伝えることで、落ち着きを取り戻してきました。



  病院の環境は敷地内クリストファー側には木造平屋の結核病棟が残っていて、それを有限会社聖隷サービスが利用して印刷の仕事をしていました。予防検診センターの敷地には職員用の小さな一戸建て住宅が数件あり、客間と呼んでいた来客が宿泊したであろう建物もありました。看護宿舎の辺には職員用住宅通称ハーモニカ長屋、北側駐車場道路沿いにはやはり、職員用住宅がありました。近隣は農地が広がり緑豊かな田園風景でした。そのため、患者さんやその関係者などの交通アクセスを考えて、駐車場の拡大整備と同時に、遠州鉄道株式会社のご協力を得てバス路線を病院前まで迂回して頂いたり、新たに路線を浜北から聖隷三方原まで設けて頂いたりしました。



  最初に始めたのは管理者研修でした。大変厳しい経営状況の中とても予算を計上することは困難と思いましたが、何とか役員会に於いてご理解を得て進めることができました。外部講師を招聘し毎月係長以上の集合研修をしました。教育の即効性は期待できませんが、長期的にみれば大変大きな力になること身をもって体験しました。数年後各職場の役職者は日常業務の中、常に問題意識やコスト意識を持って様々な改善を実行し、成果をあげてくれました。



  昭和56年4月当時の長谷川保最高顧問発案の、日本で初めてのホスピス事業が病棟内分散型で始まりました。当時は院内医師の認識が必ずしも一致していることではありませんでしたが、数ヶ月すると徐々に協力関係ができ上がってきました。そしてその年11月、30床の集中型へ移行して本格的に事業推進がされました。この頃から、当時の厚生省の大臣初め多くの方々が視察調査に来院されるようになりました。またマスコミ特にテレビはNHKはじめ民放各社の取材攻勢があり、原義雄所長は対応に大変でした。1時間番組など放映されて、聖隷三方原病院が全国に知られる大きな出来事でした。



  昭和58年8月予防検診活動の質とサービスの向上を目指し、病院の一部門から独立して、宿泊ドック32床を持った予防検診センターが開設しました。



  昭和60年5月、日本で5番目の腎結石破砕装置(ドイツドルニエ社製)を導入し治療を開始しました。当時外科手術では長期入院が必要でしたが、この装置による治療は1週間程度で退院することができ、企業や団体の要職に居られる方はじめ多くの患者さんにご利用いただき、県外からもしばしばお見えになりました。



  昭和62年4月2号館を開設し、診療科21科、許可病床数は790床になりました。この建築は手術室、放射線部門、内視鏡部門など汽車に譬えるならば、病院の機関車部分を整備しました。経営的には厳しい事業でありましたが、医療の質の向上と、将来構想の一環として実施しました。



 この計画により、診療体制として救急医療や総合診療内科などの充実が推進されました。



  平成元年10月、9年4ヶ月の勤務をして異動しましたが、聖隷三方原病院の印象は医師をはじめ各部門が真剣によく議論する集団であったと思います。このような聖隷三方原病院の風土の中から、上記のように様々な事業が推進されたことにより、一日当り外来患者数約1330人、入院患者数約740人、職員数約840人と拡大発展することができました。



  聖隷福祉事業団60周年記念式典に於いて、長谷川保最高顧問(聖隷の創設者)が挨拶の中で述べられた大切な言葉を紹介して結びにします。



 



「聖隷が創立の精神を持って尚、更に進んでいただきたい。世界がある限り、人間がある限り、そこには必ず助けを要する人がいる。それに対して、第二代、第三代の皆さんが尚続けて、聖隷の事業を発展させていっていただけますよう念願する次第です。」



                                                                                       平成22年5月10日


 


聖隷福祉事業団 監事    


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日時: 2010年06月18日 07:30
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次世代を担う若木たち

先輩諸氏のリレーから、今、聖隷三方原病院を支えている若い芽、若木たちにバトンを渡してていきます。

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日時: 2010年06月24日 15:50
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「これからの手術室」 手術室看護師 大野修氏

「これからの手術室」

 

聖隷三方原病院手術室看護師 大野 修

 

 私事であるが、去年の4月に長男が生まれた。妻は院内助産所の「たんぽぽ」での出産を希望した。妻は「たんぽぽ」で出産をし、私は長男の出産に立ち会う体験をすることができた。私も妻も看護師であり、出産に対しての知識はそれなりに持っている。しかし、私にとっても、また妻にとっても初めての経験であり夫婦ともに不安と緊張を抱いていた。しかし、担当してくれた助産師さんの確かな知識や技術、そして私たちと接する態度にとても安心できたことを覚えている。安心を感じ、妻の出産に立ち会い、また長男のへその緒を切る喜びを体験することができた。担当してくれた助産師さんには感謝の気持ちでいっぱいになった。このような経験をした後、ふと考えたことがある。

 

私は現在、手術室に所属している。手術とはどのような手術においても、患者様に不安や緊張を与えるものである。あの長男の出産のときに感じた「安心感」を患者様に提供できないものかと考えた。

「手術の不安」と言っても、様々な要素がある。その一つとして「未知への恐怖」があると考える。通常、多数の患者様たちはメディアを通しての「手術室」しか知らないのが一般的である。手術に来られる患者様からも「TVで見るのと同じですね」「TVや漫画でしか見たことがない」などの言葉がよく聞かれる。つまり「手術室」という閉鎖された空間が患者様たちの不安の要因の一つになっていると考えられる。閉鎖された「手術室」を開放された「手術室」に変えることができれば患者様たちの不安も軽減されるのではないかと考える。「安心」と「不安軽減」ではかなりの差はあるが、一つでも不安が減り、そのことが多少でも患者様の「安心」に変われば、患者様たちはより安楽に手術に望まれるのではないか

 

現在、手術室は増築の工事が終了して、9室あった手術室が13室に増築され、また、新たな手術方法や手術器械の開発もあり、医師をはじめ看護師や臨床工学士たちスタッフたちは様々な手術に対応できるために常に最新の学術的知識と技術の習得に努めている4月には新しいスタッフも所属され、患者様により安楽に治療、看護を提供できる環境が整いつつある。今後は開放された「手術室」を目指し、少しでも患者様たちに「明るい」「安心」を感じていただき、「聖隷で手術を受けてよかった」と思っていただけるようスタッフたちと活動していきたい。

 

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日時: 2010年06月24日 15:52
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「縁」 B3病棟 係長 本間 永味子氏

「縁」

      B3病棟 本間永味子

 

 「縁というのは、面白いなあ」私はつくづく、そう感じます。

私が、聖隷の名を知ったのは私自身が中学生の時でした。その頃、浜松医大に入院していた時期があったのですが、一人の女性と仲良くなりました。その方も患者として入院されていましたが、聖隷の看護学生をしている、と話してくれました。入院中で暇だったこともあり、彼女は私に看護学生の実習の様子やみんなで集まって勉強をしたこと、恋愛話や人生相談など様々な話しをしてくれました。話しを聞いているうちに、看護師を目指している彼女が輝いて見え、すごく羨ましくなりました。

 だからといって、看護師になりたい!という強い気持ちをもったか?というとそうではありませんでした。当時は別の目標をもって高校生活を送っていました。大学受験や今後の進路を考える時期になったときに、ふと、聖隷クリストファー大学の受験案内を見つけました。あのときの彼女が通っていた学校だと、なんだか懐かしい気持ちになり、何となく受けてみようかなと思ったのがきっかけでした。その結果、見事に国公立大学を落ちた私は、聖隷クリストファー大学の学生となったのでした。

 そんな感じで入学した学校でしたが、大学生活は想像以上に楽しく過ごせ、聖隷三方原病院にも就職出来たので、今となってはあのとき進路変更をして本当に良かったなあ、と思います。入院して看護学生の彼女に会わなかったら、この選択はなかったのかなと思うと、これもなにかの「縁」なのだと思いました。更に、私の看護学生時代にも、なにかといろんな「縁」がありました。

 看護実習をしているころ、小児科の実習で患児Aちゃんの担当になりました。元々、小児科希望だった私はすごく意気込んで実習に取り組みました。しかし、相手は子供。初対面の相手になかなかうち解けられない。私は、何とかAちゃんの心を開かせたいと、試行錯誤の日々でした。紙芝居を作ったり、画用紙でピンクのナースキャップを作ったり、つらい検査の後は思いっきり褒めたり・・・。その甲斐あってか、実習終了間際では本当に仲良くなれて、私の方が別れを悲しく思うようになっていました。

 その後、晴れて看護師となり、聖隷三方原病院で仕事をして数年経ったとき、Aちゃんが入院してきたのです。高校生になったAちゃんは、もう小児科ではなく成人の病棟に入院でした。そして、私のこともちゃんと覚えていてくれたのです。入院中つらい検査なんかもありましたが、私の前では楽しそうにいろんな話しをしてくれました。更に、大学受験を目指して勉強中のAちゃんの口からは「聖隷クリストファー大学に行きたいんだ!!」という言葉が!!

 嬉しくて、嬉しくて、不覚にも涙が出てしまいました。何度も入退院を繰り返し、つらい入院生活を経験し、看護師の仕事を間近でみていた彼女が、看護師になりたいと思ってくれたなんて!!!

 きっと、入院中に施設の環境はもちろんのこと、医師や看護師、コメディカルの方々など、たくさんの人と人とのつながりや暖かさを感じてくれたのだと思います。その後、Aちゃんは見事、受験に合格して聖隷クリストファー看護大学の学生となりました。看護師として一緒に働ける日も近そうです。ちなみに、大学生になった彼女からもらった手紙には「毎日、かなり充実していてめちゃめちゃ楽しいです!!」と書いてありました。

 

  聖隷が設立して80年、私だけでなく様々な人が聖隷といろんな「縁」があったのだと思います。

 これからも「縁」を通して人と人とが繋がっていく、そんなあたたかさのある聖隷であってほしいと思います。

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日時: 2010年07月02日 09:20
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「聖隷との関わり」 聖隷三方原病院 C3病棟係長 大井 巌 氏

「聖隷との関わり」

聖隷三方原病院 C3病棟 大井 巌

 

私は聖隷短大を卒業し平成34月に聖隷三方原病院に就職しました。就職してからは5ヶ所の院内の職場を移動し今日まで頑張っています。

 両親から話を聞くと、聖隷とは私が生まれる前から深い関係があるようです。私の母は結核を患っている時に聖隷にお世話になったようで、叔母のお見舞いに来た父とここで出会ったそうです。2人とも日本キリスト教団のクリスチャンであったことも結びつきを強めたようです。その頃に出会った前理事長の長谷川保先生にたいへんにお世話になったと聞きました。そんな私が聖隷三方原病院に勤めていることに深い縁を感じます。

初めて聖隷を訪れたのは私が小学生の頃で、祖母が十字の園に入所していた時に合いに来たのが始まりです。その頃は姫街道は追分から松並木が並んでいて、姫街道から十字の園まで舗装されておらず、雨が降ると泥だらけになって歩いた事を思い出します。

中学校を卒業して新潟市にある敬和学園高校に入学した時は、2度と静岡県には帰らないだろうと考えていました。帰って来るきっかけになったのは、聖隷短大に合格した時に長谷川保先生から「おめでとう」と電話があったからです。今ではとても感謝をしています。

聖隷短大に入学してからは、もくせいの里の高田園長の好意で管理人として働きながら通学させていただきました。エデンの園ではアルバイトとして長谷川保先生の居室を掃除させていただいた時には感慨深いものでした。アルバイトを始めてから知ったのですが、青木婦長さんと叔母は看護学校の同級生で、卒業式の写真に母が写っていたのにはたいへん驚きました。

このように生まれる前から聖隷にお世話になっていましたから、ここにいることが運命であったとも思えます。   私自身はまだお世話になって19年程ですが、可能な限り勤めていきたいと考えています。

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日時: 2010年07月09日 08:18
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「私と聖隷三方原病院とのつながり」看護相談室 係長 大木純子氏

私と聖隷三方原病院とのつながり

看護相談室 大木純子

 

 聖隷のシンボルマークは、外側の二重円がたらいを表し、その内側の3つの円が医療(赤)・教育(青)・福祉(緑)を象徴していると言われている。それら3つの円は重なり合っており、各専門職がそれぞれの役割を果たすとともに、連携・協働することを示していると思われる。私が聖隷のシンボルマークを示したのは、聖隷三方原病院とのつながりを考えたとき、教育、つまり聖隷クリストファー大学で学ぶ機会を与えていただいたことにより、聖隷三方原病院に就職することができたと思うからである。教育は、単に大学における教育だけでなく、臨床の場面における現任教育も含まれると思われるが、私にとって、聖隷三方原病院とのつながりを考えた時、聖隷クリストファー大学の存在なしには語れないといえる。

私が聖隷クリストファー大学(当時は聖隷クリストファー看護大学)で、もう一度看護学を学ぼうと決めたのは、大学病院で看護師として働いていたときに出会った、患者様、ご家族との関わりからであった。がんを患い、闘病している患者様の中には、術後の合併症等により、家に帰りたいと思っていても退院ができず、何年も入院されたまま、最期まで病院で療養されていた方もいた。患者様、ご家族が様々な思いを抱きながら意思決定されたことではあったが、長期にわたり病院で療養されている方との関わりを通して、在宅で過ごすことの意味を考えるようになった。そして、在宅看護についての知識を深めたいと思い、大学への進学を決意した。なぜ、聖隷クリストファー大学を選択したのだろうか?単に、静岡県民ということもあり、静岡県内にできた看護大学を選択したのだろうが、今になって思うことは、これまでの歩みが、偶然ではなく、決められたレールの上を進んできたのではないかと考えるようになった。というのも、現在私は、がん患者・家族が在宅療養において苦痛や不安が少なく過ごせるように、病棟看護師・外来看護師とともに療養環境の調整を行ったり、がんを患ったことにより生じている精神的苦痛が緩和できるように支援している。聖隷三方原病院の就職試験では、ペーパードライバーという理由から、第一希望の訪問・看護相談室を断念し、他の職場を希望した。試験官との話の中で「ホスピスで働いてみたい思いもあるが、私には精神的なサポートを行うことは無理だと思う。」と思いを伝えたのにもかかわらず、ホスピス病棟での勤務となった。その後、車の運転に慣れたことで、訪問・看護相談室(現在の看護相談室)に異動し、在宅ホスピス患者に対してケア提供してきた。そして今、ホスピス病棟・在宅ホスピスでの経験や大学院での学びを活かし、がん患者・家族の精神的苦痛緩和への支援を行っている。精神的なサポートを行うことは無理と言っていた私が・・・と今更ながらに思うが、これも運命なのかなと考える。

 最後に、私が大学に進学しようと思わなければ、聖隷三方原病院で働くこともなかったと思われる。しかし、大学および大学院に進学できたこと、そして、今の仕事に就いていることは、私ひとりの力ではなく、私を支えてくれた多くの人がいたこと、患者様との出会いや別れなど、これまでの経験の積み重ねによること、そして、“聖隷”の先駆的な戦略により、学びの場を設立してくれたためと思われる。これまでの歩みに感謝しつつ、専門職としての知識・技術・態度を身につけて成長・発展できるように努力していきたいと思う。また、決められたレールの上を歩んでいるだけではなく、自分で切り開いてきけるように、“聖隷”を発展させてきた先駆者のように、未来を見据えた活動ができるように努力していきたいと思う。

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日時: 2010年07月16日 07:49
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「これからの聖隷三方原病院に期待するもの」 C2病棟 係長 鈴木千鶴子氏

「これからの聖隷三方原病院に期待するもの 」              C2病棟 鈴木千鶴子  

 私は、ふとした時に、聖隷との縁を感じることがあります。短大入学から始まり、学生時代のアルバイトも聖隷三方原病院でした。そして、就職先は、当院の変革前のA号館の呼吸器・循環器内科病棟でした。その頃は、現在と異なり、諸治療の分業には限界もあり、急性期だけでなく慢性期の長期入院の患者様も多く、癌告知もほとんどされていなかった状態でした。そのため、病棟内で、化学療法、心臓カテーテルや気管切開、時には透析などの治療しながら、多様の看護ケアを展開していたことを思い出します。看護スタッフ誰もが、どんなに忙しくても、患者様に寄り添い、いかに入院生活に楽しさを提供できるのか試行錯誤していました。そして、ともに「ありがとう」の言葉を交わせる関係作りを目標にして、温かい環境の中で仕事をしていました。その後、残念ですが、家庭事情と体調不良を機に退職したのですが、その後9年のブランクを経てまさかの再就職でした。復帰した頃は、痛切に医療の進歩を肌に感じつつ、日々様々な人達に支援していただきながら、何とか仕事をこなしていたことを覚えています。しかし、どんなに仕事が忙しく厳しいものでも、周囲のスタッフの心の温かさが大きな支えになり、現在に至ることができていると思い感謝にたえません。

 私が、知っている聖隷三方原病院の良さは、昔から基本理念に掲げている「隣人愛」通りに優しい風潮が根付いていることであると確信し誇りに思っています。しかし、時代の変化とともに、スタッフのみならず利用者の一部に、本来の人間の辛抱強さが足りなくなっているため、目前に現われたストレスに対し、前向きに解決できず自分を見失ってしまう人が多くなっている最近の傾向を残念に思っています。また、自分の意見を主張することも必要ですが、相手の立場に立って行動することの方が難しく大事なことだと、年齢を重ねる毎に痛感しています。 近年、コミュニケーション能力の低下やコミュニケーションエラーが注目されています。言葉の意味、言葉のかけ方などで、ずいぶん印象が異なるだけでなく、場合によっては思いのずれが生じてしまいお互いに苦痛を感じざるをえないことになってしまいます。人対人の仕事は、心を通わすことを決して切り話して考えられません。したがって、情報化社会に転じている変面の弱さを補うために、コミュニケーションスキルの向上と、教養の提供など人間性を高める教育の方策が必要ではないかと考えます。 

 また、平成19年に政府より健康国家への挑戦と題して、「新健康フロンテイア戦略」が掲げられました。現在、国内様々な場所で様々な健康事業や健康活動が盛んに展開されています。そのいくつかの柱の具体的な対策の一部として「がん対策の一層推進」がありますが、聖隷三方原病院も、地域がん拠点病院として中心となり、OPTIMの活動が積極的に実践されています。また、専門医師や専門認定看護師による公開講座の開催や急性期患者の受け入れなど、地域に根差した活動をしています。その結果、医療施設間のつながりや医療水準はよりよいものになってきたと確信しますが、地域の皆様への健康支援体制が弱いと感じています。急性期病院として、個々の病気の発症原因が最も明確に把握でき、本人および家族とも健康を意識される場所です。そのため、地域を対象とした市民講座や教育講座が広く一般に開催され、病気を見つめる視点から健康を見つめる視点に変わっていくことができることを期待します。

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日時: 2010年07月24日 09:39
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「これからの聖隷三方原病院」C2病棟係長 菅沼美佳氏

「これからの聖隷三方原病院」    

    聖隷三方原病院 C2病棟係長  菅沼美佳 

 私の人生の約半分は聖隷と関わりがある。21年前、聖隷短大に入学し、その後、聖隷三方原病院に就職し現在も働いている。聖隷短大を選択した理由は県内の看護系の短大に入りたかったからだった。入学当時は、聖隷=キリスト教との認識が家族の中にあり祖父、伯父、いとこが僧侶の家系の私にとっては、キリスト教を信仰するのかと反対まではいかないが、躊躇されたものだった。短大の授業ではキリスト教があり聖書を読んだりした。信仰のない私にとっては不思議な時間だった。短大を卒業し就職は実家の近くにと考えていたが結局、聖隷三方原病院を選んだ。聖隷創始者の設立の理念である「隣人愛」を継承し、看護をしている先輩看護師達がいきいきと看護をしている姿をみて、ここの病院の看護師さんたちは素敵だなと思ったからである。

 就職してから現在に至るまで色々なことが大きく変化している。就職したあと病院の建物はC号館が建てられ、最近になりF号館が建てられた。玄関にはタリーズがあり、コーヒーを買いに行くと病院なのに病院ではないような気持ちになる。私はF号館があった位置に建てられていた母子棟で13年間働いていたので、思いだしては懐かしく未だどこかにあるのではと思えてくる。

 就職当時はカーデックスがあり、看護計画は手書きで11人患者さんにあった計画を自分なりに一生懸命に立案した。カルテの記録も11人手書きの用紙に記載、検温表も手書きで、線引きの定規でグラフを書いていた。今は電子カルテになり随分、楽になった。聖隷三方原病院で大きく変化していったものはまだまだ沢山ある。たった21年でこれだけの変化をしてきている。きっとこれからも色々なことが時代とともに変化していくだろう。 

 しかし、変化していかないものがある。聖隷創始者の設立の理念である「隣人愛」である。私が就職した当時と働く人々は全く同じではない。なのに、持っている精神は同じで変わっていない。80年も変わらぬ精神を沢山の人が持ち続けている。最近、読んだ本で「大きく伸びる企業には必ず確固たる理念と信念を持ったトップがいて、その理念と信念のもとに社員一丸となって仕事をしている。こういう組織にはブレはない」と著者の国吉氏は述べていた。この文を読んだ時に聖隷三方原病院が「隣人愛」という理念をもとに、職員が一丸となって仕事をしているから組織にブレはなく、80周年を迎えたのだと理由が分ったような気がした。 

 聖隷三方原病院の施設、設備面は充実してきている。しかし、病院が続くためには、「人」にあるのだと思う。人=職員が患者さんへのサービス、患者さんのための医療の提供に職員が一丸となり取り組んでいる。「隣人愛」という理念を実現するという目標が徹底、共有できているのだと思う。これからも時代に適した医療を提供しながら、理念の実現にむけて職員が一丸となり仕事をし続けていくだろうと思う。 今年も4月に新入職員を迎えた。12年前に小児科病棟に長期入院していた子が看護師となり、一緒に働くこととなった。私の中ではまだ小学生なので、とても変な気分がする。でも、看護の道に憧れ、めざしてくれたことに、感動する。聖隷の理念は時にこのようにもして引き継がれていくのだろうと感じる。

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日時: 2010年07月30日 07:50
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『聖隷事業団と共に』外来医事課 課長 小栗明美氏

『聖隷事業団と共に』外来医事課 小栗明美

 

 

 聖隷事業団と共になんておこがましいのですが、私の人生は、ここに就職してから現在に至るまで共に過ごしてきたなと思いこの題にしました。80周年の歴史の重みを感じています。

 

 1974年に就職して35年以上過ぎました。当初は聖隷浜松病院に就職し10年半資材課を経験しました。薬品係として病棟在庫の補充や仕入れの補助を行い、薬品名が難しく夢の中で右往左往しながら覚えていったなと思い苦笑してしまいました。1984年に医事課に異動、外来担当を半年ほど経験して入院担当となりました。その後、医事課は入院、外来に別れたため、両方を交互に経験し、通算しますと18年ほどになります。私にとって当時の医事課は、残業あり、休日出勤ありの部署で、勤まるだろうか?と思いながらも1991年にオーダリングシステム導入に携わり、仕事が楽しい、家庭で嫌なことがあっても私の居場所がここにあると思っていました。事務職は男性優位の世界ではありますが、女性の能力を発揮できる場所でもあります。20025月に聖隷吉原病院(現:聖隷富士病院)医事課に職場長として単身異動、今の富士病院の医事の原点を作ったなと自負しています。200710月、聖隷三方原病院、外来医事課に異動、聖隷の原点となるこの地にいることは感慨深いものを感じます。まだまだ住人にはなりきれていませんが、自分を磨いていこうと思います。

この文章を書くにあたり自分の過去を振り返り、ここまで継続出来たのは何故なんだろうと考えました。その思いを巡らしていくと答えは人間関係にあると思いました。指導力があり、部下の志を見守ってくれ、私を信頼してくれた上司や仕事のノウハウだけでなく、仕事に向き合う姿勢など、人としての姿を教えてくれた先輩がいました。更に、競い合える同僚、頼りにしてくれる後輩がいたからこそ継続できたのだと確信しています。

 さて聖隷は、一人の結核患者を助けたことに始まり、多くの患者の生命の誕生から消滅までの人生に何らかの形で関わることを行ってきました。病院だけでなく、保育園、老人施設など、人が人に関わり、人の繋がりによって保持されていると言っていいと思います。より良い人間関係により帰属意識ができ定着に繋がり、経験が増えることで仕事の楽しさも見出せるのではないのかと思います。(私の経験上)。

聖隷の未来には、聖隷人を育て聖隷で働いていて楽しい、そして活き活きと働けるような人を作っていく必要があると思います。私は今後この聖隷の中で、人を大事にして得意とするところを認めて、仕事が楽しいと思えるような雰囲気を職場長として作っていきたいと思っています。

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日時: 2010年08月06日 07:14
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『聖隷福祉事業団80年にあたって』十字の園診療所 医師 後藤 幸一氏

『聖隷福祉事業団80年にあたって』

十字の園診療所 医師 後藤 幸一 201088()

 

聖隷福祉事業団、80年を迎えるにあたって心よりお祝いを致したいと存じます。

私が、外科医として三方原に就職をしたのは、昭和51年(1976年)です。新米の身でありながら、その頃は病院前の職員宿舎(現在の第2駐車場の位置になります)、それを改装して住ませてもらいました。その時、事務長さんは、後の事業団の役員になられた鈴木捷二さんでした。今でも本当にありがたく思う次第です。しかし、しばしば夜に手術などで呼び出しをうけることになりました。

歩いて出かけると、厚生会館の玄関のところ(現在の医事課、2番窓口のところ付近にあたるでしょうか)、大きな一枚板の衝立(ついたて)があって、クリスチャン賀川豊彦(18881960)の直筆が書かれてありました。きれいなつづけ字で「大自然に抱かれて、神の愛を呼吸する。如何に嬉しいことであろう」とあり―そのころは、右も左も、むろん聖隷の歴史も知りませんでしたが、これから病棟に向かうにあたってさわやかな、力が湧いてくるような気がしたものでした。

“さあ、これからやるぞ”というような気合がはいって、そして帰るときにはうまく行かなくてがっかりとしたことがあったにせよ“ああなんだか励ましてくれるような充実をさせてくれるようだ。”と思いつつ読んだものです。結局、その頃から34年が経っていますが。

夜は、漆黒に静まりかえって、厳粛で、敷地全体が“大自然に抱かれて”・・まさにそのとおりのものでした。

 

・・あの立ててあった一枚板、うる覚えだが、たしか聖隷の資料館にあったはずだが。と想い出し、先日、外来診察の途中(すこし抜け出し)聖隷クリストファー大学内の資料館に入ってみました。しかし、その書には(ここにメモをして帰ってきたのですが)、違った文面となって、「神の摂理を発見すれば、神の神秘が我等に迫る」と、こうなっていました。

結局、夜中にうろうろとしたから、暗い中で見まちがえたのか、それとも自分の記憶力のなさなのか、と少々がっかりとしたものでしたが、よく見ると、板には裏とおもてに両面に書かれてあったのですね。(一方の側は最初に書いたとおりのものでした。)

まさに“神の神秘が我等に迫る”というもので、34年の記憶とはそういうことを表しているということなのでしょうか。

 

創設者、長谷川保の『夜もひるのように輝く』の中では、聖隷社創業は、“1926年復活節 神のものは神にかえせ 聖隷社”とあります。これは大正15年にあたります。

その後、昭和33月になって消費組合浜松同胞社が創設されていますが、これは生活協同組合の先駆者、賀川豊彦が唱えた英国ロッチデール開拓者協同組合から学んで出来たものであることがわかります。

肺結核で、「この子の五尺のからだを天地の間に入れてやる所がないのですわ・・・」とその父に言われて、この消費組合で桑原青年をあずかったのが、昭和5年であり、この年が福祉事業団の始まりとされています。この年が1930年ですから結局、本年で創立80年ですね。

たしか昭和63年頃と思いますが、長谷川保氏と八重子夫人に誘われて、“賀川豊彦の映画がありますから一緒に見に行きませんか”と、板屋町のちいさな映画館に行ったことがありました。題名は「死線をこえて」で、主役に国広富之(賀川豊彦役)、妻役は、若かりし黒木瞳で、とても均整のとれたいかにも貧困者のために一生を捧げ尽くし、またその手助けをした伴侶としての妻の姿が忠実に描かれたものでした。おそらく私が、聖書講義に出席をしていたから、誘ってくださったのだと思われますが、よく考えると、聖隷の歴史の端々(はしばし)に、キリスト教社会運動家、賀川豊彦の存在があったのだなあと改めて感じさせられる次第です。

 

私が就職して、45年のころ、聖隷の50周年の記念行事式典があって―聖隷高校の旧体育館、マザー・テレサが来日し、講演会をしたところで、―おそらく聖隷の機関誌には初代の先駆者たちが勢ぞろいした記念写真が写っていると思います。

じつはまだ健在の人たちもいるのです。(この80周年を迎えた今でも)。それは聖隷の敷地内、ケアハウスであったり、十字の園(特別養護老人ホーム)であったりで、その後姿を拝する(時には診察もする)仕事にも恥ずかしながら、担っているわけでもあります。

多分、今のB病棟の地下にオペ室がうつったころだから、昭和61年頃ではないかと思います。麻酔科の高田知季先生から、「これ引っ越しで、捨てる予定ですが先生があずかってもらえませんか。」と言われ、数冊の古い大学ノートを渡されました。

おそらく今はだれも聖隷で最初に手術があったのか、知られてはいないと思いますが、記録では昭和248月。元東京帝国大学、外科教授、都築正男医師が、三方原に来られて胸部の手術を施行されたこと、それらのノートは忠実に80年の歴史のなかで語っていることをここに記しておきたいと思います。

今後、歴史はいかなる形であれ、これは継続の流れをとるものであります。その一端をも担いつつ、微力ながらでも役に立つことができればと思っている次第でもあるわけです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日時: 2010年08月12日 08:00
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「冠動脈インターベンションとクリティカルパスの日々」 なるみやハートクリニック 宮澤総介氏

なつかしい聖隷三方原病院の思い出 ~冠動脈インターベンションとクリティカルパスの日々~ 

なるみやハートクリニック 宮澤総介   

 聖隷三方原病院に在籍したのはわずか9年間であった。この間、様々なことを見たが、なかでも記憶に残る3つのことを書いてみたい。それは、聖隷の職員のことであり、冠動脈インターベンションのことであり、そしてクリティカルパスのことである。  

 聖隷の骨格に相当する要素は、医師以外の職員という人材であると感じる。これらの人々は、きわめて勤勉であり、努力家であり、それと同時に真のやさしさを兼ね備えていて、人間を扱う医療の最前線で働くに最もふさわしい人間性を持っている。この特異な性質がどのようにして育まれてきたのかは知らないが、私はそのすばらしい特質に接したとき強いカルチャーショックを覚えた。特に、循環器科のベッドがあった6病棟の看護師たちには思い出深い経験をさせてもらった。かれらとは患者の治療方針をめぐって対立することがしばしばあった。無駄かもしれない侵襲的治療を強行しようとする私の前に立ちはだかり、「それが患者さんのためになるんですか?」ときびしい口調で攻撃した。 一方、新しい治療に挑み、結果として患者を救うことができたときには、かれらは私とともに喜び、達成感を共有することができた。看護師がこれほど医師との間に意思疎通をはかろうとする病院は経験したことはなく、これが私を最も驚かせた。  それに引き換え、聖隷の医師は流れ者の集団であった。理念を共有するなど、夢のまた夢。思えば私も、自己の技術向上と学会や論文での業績に拘り、無私の精神で臨床ひとすじという生活ではなかった。この特色こそが、聖隷三方原の強みであり、同時に弱みである。  

 それでも、私にとって誇りに思う1つの仕事ができたことも事実であった。それは聖隷三方原病院に冠動脈インターベンションを定着させたことである。大学病院での心臓カテーテル4000例の経験をもとに、持てる技術を完全に還元した。昼も夜も急性冠症候群の患者さんが来るたびにアンギオ室へ行き、治療を行った。それは毎回のように真剣勝負であり、私の心臓がどうかなってしまうのではないかと思えるほどであったが、香坂先生と成味先生の絶大なる支援と、救急室、アンギオ室の職員や放射線技師、臨床検査技師たちの協力に支えられてなんとか乗り越えることができた。冠動脈インターベンションは医師の哲学を基礎として行われる芸術と言うことができるものである。自分の技術が患者の安全に直結するシビアな側面を有している。老眼が進んで集中力が持続しなくなった49歳のころ最前線を降りることになったが、それまでの9年間に行ったカテーテル治療は私の循環器内科医としての集大成であった。  

 ある日、新居院長に呼ばれて行くと、「critical pathway」という本を渡された。これについてどう思うかを聞かれたが即座には答えることができなかった。その後、この本を読んだ私は、この種の管理は医療には必要だと思えた。それが私とクリティカルパスとの最初の出会いであった。クリティカルパスそのものはすぐに作成することができたが、どのように使えばいいのかという点について路頭に迷った。とにかく実際に使い、どんな可能性があるのかをC3病棟の職員たちと毎日のように話し合った。まるでクリティカルパスという病におかされ全員が感染し、発熱したような状態であった。クリティカルパスが理想とする経過を示す仮説に過ぎないということと、目標とするアウトカムをチームで共有することが重要だと気づくまでにはしばらくの時間を要したが、その後はとんとん拍子で進化し、パス研究会も立ち上げて、病院のソフトウェアを大きく変貌させることができた。今では私と同じ開業医になった新居前院長と、「あれはすごいことだった」とふたりで昔を懐かしんでいる。  

 紹介患者さんを快く受け入れてくれる聖隷三方原病院には大いに感謝しているが、病院といえども地域医療においては単なる1つの要素に過ぎない。内部にいる人にはなかなか見えない現実であることは経験上よくわかるが、浜松市北部の実際にお付き合いのある近隣施設との関係こそが将来の聖隷三方原病院の運命を左右することは間違いない。わが国をリードしていく、地域連携のモデル地区となるくらいの気概を持って、地域というチームメートとのコミュニケーションを推進していただくよう切に希望している。

 

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日時: 2010年08月18日 07:59
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